abt ひらくとは、事前に答えがわからないことを受け入れること
前提
『感じるオープンダイアローグ』が取り上げられているが、のらてつは読んでいない
よってこの記事に対する咀嚼・考察・感想
(あまりにも自分流のアウトラインなのでUnnamed Campに書き込むか迷った)
が、要約しようと考えたものの無理だな!と思ったのでそのまま書き込んだ
「事前に決まった枠組み」≒「偏見」
この場合の「偏見」は必ずしもネガティブなものとは限らない
ネガティブでなくとも邪魔にはなり得る
何かしらの意味で「偏り」「固定」がある
固定があるということがイコール何かしらの偏りがあるということを意味している
よって「事前に決まった枠組み」を「偏見」と言い換え得る(とnora.iconは考えた)
(ただし「偏見」の二文字に対する偏見が存在するのでUnnamed Campを離れたらこの表現は使えない)
「偏見」の存在意義は何か
事前に答えがわかること
よって「ひらく」の逆
舗装された道路を進めるということ
その簡単さと引き換えに、舗装などされていない圧倒的に広い面積を無視することになる
「偏見」が更に「固定」されることに大きな問題がある
「固定された前提」が仮の固定ではなく徹底した固定になってしまうこと
理解のために一時的に仮固定をして検証するのはふつうのことと思えるが
つまり枠組みは「使いこなす道具」として存在する必要がある
ひらきながら、一部を一時的にとじることで既存の知識・情報を活用することが可能になるというか
その要因は?
何かしらの「権力の非対称性(=立場)」「判断能力の非対称性(=知識の差)」がある
それらを持たざる者のことを従順にしてしまう
たとえ立場や知識によって意図的に従順さを強いなくとも、持たざる側が勝手に従順になって「閉じる」
例えば治療の現場なら「医師」が明らかに「高い立場」にあり且つ一人だけ「知識」を持っている
実際には「患者の情報」は患者が持っているし、患者が自覚していないが表面に現れている「事実の情報」は普段一緒にいる人と看護師が持っている
つまり、医師がむしろ持たざる側として「情報の非対称性」がある
それを医師が認められるかが治療の現場では鍵になっていそう
よって、固定されないための形式を整えておく必要がある
仮面舞踏会も「ひらく」ための形式の一種かも
例えばUnnamed Campは
ひらかれた場であるとnora.iconは感じている
①構成員に実績や有名無名の差があるが、それらによって従順さが発生することが回避されているから
(無名の側が萎縮せずに堂々と開き直ることによって?)
(nora.iconは意識的に開き直っている)
また、場の中での対話・議論によってランク付けが生まれることが回避されているから
「Unnamed Campのヌシ」とか「Unnamed Campのドン」とかそういうもの
書き込みの多さも質も「よく書き込む人」という意味合いしか持たない(と思う)
そもそも全員が毎度記名しているわけではない
途中でコメントを加えていくとどこからどこまでが誰の発言かが曖昧になっていくというのもある
大体はよく見ればわかるが、ぱっと見ただけでは判別しにくい
②内容が偏見を生じ得ないような形に広がっているから
概念に対して名付けがされているが、今のところ業界用語的でない
「内輪のための名付け」でないということ
話がリセットされている
発想の方向性が多岐に渡っているから
物の見方がフラットであるから
ただしこれらのことは常に意識され続けなければいつでも崩れ得ることだとも感じている